2004/05/02

映画「パッション」

  パッションを忠実に描くギブソンのパッションをわがパッションとせよ

映画「パッション」を見てきました。
台詞はアラム語とラテン語で語られ、英語+日本語の字幕が付いています。
暴力的シーンは全編を通してありますが、特に鞭で打たれるシーンと十字架に釘付けにされるところが大きいでしょう。

物語はゲッセマネの園で苦しみながら祈っているところから始まります。
聖書には出てきませんが一人の女がサタン(死神?)として登場します。
この女は[イメージ]で他の人物と会話することはありません。
イエスは苦しみながら祈って倒れ伏しています。この女から出たヘビがイエスの体にまとわりつきますが、イエスは起きあがってヘビを踏みつけます。
ここは創世記3:15の預言、すなわちサタンに対する人の子の勝利を示しています。つまりこの場面が、この後から始まるイエスの逮捕以後の出来事を総括しているのです。
あとはユダの裏切り-逮捕-裁判-処刑と続いて最後は復活したイエスが墓の中で歩き始めるところで終わっています。
その一連の物語の中に、イエスの幼い頃や、大工として働いていた頃、山上の説教、姦淫の女について「罪のない者から石を投げよ」と言って彼女を罰しなかったこと(この女性が母マリアとヨハネと共に終始イエスに寄り添っていま
す)、最後の晩餐(これは何回にも分けて出てきます)などがちりばめられています。これらは最低限の描写によって成り立っていますので、見る側が聖書に親しんでいることが前提でしょう。
物語を展開していくキャラクターとして注目したキャラクターが幾つかありました。
イエスの裁判に関してニコデモが「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(ヨハネ7:51)と主張したのですが、これはイエスを
逮捕するのに失敗した時の出来事でした。映画では、イエスが捕らえられて深夜の裁判にかけられた時にニコデモが「茶番だ!」と批判して退出されられてしまいます。こうして、公正な裁判を主張する人が排除されたところで裁判は行われます。
ピラトは徹頭徹尾イエスの処刑に反対した人物として描かれます。一度目は無罪を宣告しますが、最高法院がおさまらないと見るや「ガリラヤ人だからヘロデに裁かせろ」とヘロデに下駄を預けます。ヘロデが変なキャラですが、これ
またイエスを処刑することを拒み再びピラトのもとに送り返されます。ピラトは「重い刑」に処すことによって何とか無実であるイエスを殺すことを回避したいと願い鞭打ちにします。このシーンがたいへん残酷です。しかし最高法院はこれで納得せず、あくまでも十字架を要求します。
この時に先頭に立って「十字架につけろ」と叫ぶのが(たぶん)大祭司です。
彼が一声叫ぶと皆がそれに続いて同じことを叫ぶのです。
暴動(によって自分が解任されること)を恐れるピラトはついに「イエスの血の責任は自分にはない」と手を洗って最高法院の要求に屈するのです。
官邸からカルバリの丘までのヴィア・ドロローサは兵士たちによる暴力で満ちています。先頃報道された米軍兵士によるイラク人に対する虐待と重なるものがあります。
そして十字架に釘で打ち付けられるシーンも槌で釘を打ち付けた時に血が噴き上がり、下につきだした釘の先からも血がしたたり落ちる念の入れようです。
イエスが逮捕された時に、一人の弟子(映画ではヨハネ福音書に従ってペトロ)が大祭司の手下マルコスの耳を切り落とします。イエスはあの有名な言葉「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ28:52)を言います。そしてルカ福音書に従って彼の耳を元通りに癒します。聖書にはないけれど、マルコスはこのときからイエスに対する見方を変えて行きます。十字架のところまでそれは一貫しています。聖書ではこのマルコスは最高法院の手下あるいは「群衆」の一人なのですが、映画ではローマ軍兵士になっています。彼はイエスをあざ笑い、ひどく暴力的である兵士の中でただ一人イエスが何物であるかを感じ取っていたのです。
この映画の中でもっとも存在感の大きい人物は、イエスの母マリアと、ヨハネ8:7でイエスのおかげで石打を免れた女です。愛をもっと最後まで見届ける二人(+ヨハネ)と、冷酷な目をもって最後まで見届けようとする大祭司たち(最後は天候の悪化によって帰ってしまう)の対照が一つの見所だと思います。
映画を見るものがどちらの目で見るかを問うているようでもありました。

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